斎藤雄吉(創業者)は、福島県会津郡に生まれ、単身東京に出て来て浅草の土建会社で修行を重ねた。大正13年に心機一転独立を果たし、浦和で建築請負の事業を始めた。「斎藤工業所」の誕生である 。
浦和競馬場の建築部門の工事を請け負う。埼玉県馬匹連合会の発注による資金立替一式の条件工事で、今に換算すると数百億円にも及ぶ仕事だった。乗るか反るかの一世一代の仕事であったが、これをやり遂げ、一躍世間に「斎藤工業所」の名を売る結果となった。それからのちは、学校や公営住宅などの官庁工事を中心に、次々と工事を受注するようになる。
1956年
戦後復興という大きな役割を担って、昭和25年に任意団体として発足した埼玉県建設業協会は、昭和31年4月に法人化の認可を受け、「社団法人埼玉県建設業協会」が設立された。 斎藤雄吉は設立発起人の一人となって尽力し、設立に際しては副会長の席に名を連ねた。当時の会員数は199社であった。
鉄筋コンクリート造建築を開始
昭和30年代は木造から鉄筋コンクリート造への切り替えの時代であった。昭和32年5月、斎藤工業所をはじめとする主な県内建築業者13社が集まり、「青芽会」と呼ばれる勉強会を発足し、急速に普及してきた鉄筋コンクリート工法について研究を重ねた。
それまで公共建築工事はすべて県外業者に委ねられていたが、当時の県住宅課は、その頃開発された鉄筋プレハブを採用し、その実施に際して青芽会のメンバーを指名した。
その後昭和34年頃から、学校建築などを中心に鉄筋コンクリート造が増えてきた。やがて、ミキサーで現場練りしたコンクリートをタワーを立てて打設する方法から、工場から出荷した「生コンクリート」を圧送ポンプによって打設する方法へと、コンクリート技術も大きく変化してきた。まさに、建設業界近代化の夜明けであった。
1963年
昭和37年7月、斎藤雄吉が没する。享年 63歳であった。
斎藤裕は会社を引き継ぎ、斎藤工業所所長(経営者)となる。その後昭和38年 12月には、個人経営「斎藤工業所」から法人「斎藤工業株式会社」 (資本金5,000万円)へと改組し、代表取締役社長に就任する。 同時に東京支店も開設。
それまでは、先代雄吉はあくまで個人経営に拘っていて、法人化は実現しなかった。建設業界の旧態依然の体質から脱却して、近代化に向かって新たな改革や発展を目指そうと考えていた裕にとって、株式会社設立は予てから抱いていた悲願であった。
当社は大正13年、故斎藤雄吉翁によって創業され、当時は同翁の「雄」を無限に伸びる一本の線により丸く囲まれたものが使用されていました。昭和38年に株式会社に改組したのを期に社章を変更しました。全体のプロポーションは、建築の源であるギリシャのパルテノン神殿を図案化したものであり、頑強なベースに柱であるSKCの文字は如何なる力にも耐え得るエンタシス(柱の膨らみ)を呈し、大屋根を力強く支えています。
社団法人埼玉県建設業協会は、拠点としていた埼玉土建会館の老朽化に伴い、新たに埼玉建設会館を建設することになり、斎藤工業がその施工を受注した。また会館の運営は株式会社方式とすることが決定し、斎藤裕を取締役の一人として含む会社組織が発足した。
第22回国民体育大会が埼玉県で開催され、競技場の建設をはじめ宿舎や関連道路、下水道などのインフラ設備の整備工事が進められた。当初これらの主要な工事は、大手建設会社に発注される予定であった。
しかし、積極的に県への働きかけを行い、県内企業への受注機会の拡大を目指した。斎藤工業は株式会社竹中工務店との共同企業体を組織し、上尾運動公園屋内体育館建設の受注を図った。当時はまだJVの運営方式も確立されておらず、また発注者側にもその意義が十分に理解されていない時代であったため、その実施には大変な困難を伴ったが、埼玉県初のJV工事がここに実現した。
この結果、その他の工事についても、メイン会場となる上尾市に22棟550戸の選手村が建設されたが、そのほとんどを県内業者が施工することができた。
上尾運動公園体育館に引き続き、竹中工務店とJVを組み、県営与野高層住宅を受注した。この建築は埼玉県内で初めての鉄骨鉄筋コンクリート造の建物である。
コンピューター導入による総合管理システム化を図った。県内の建設会社にあっては、先進的な取り組みであった。
当社設計施工物件 総延面積31,854平方メートル
平成5年Jリーグ発足に合わせ、浦和市駒場競技場の改修工事を施工。ナイター設備と洋芝のグラウンドをもつ1万人収容の施設となった。
平成7年には収容力不足を受け、メインスタンド・サイドスタンド・バックスタンドを増設し21,500人収容の施設となり、名称を「浦和駒場スタジアム」とした。
上尾運動公園体育館(1967年建設、当社施工)が、ちょうど40年の年月を経て、再び当社によって耐震補強工事が施工され、また新たな生命を得ることとなった。
斎藤裕会長は、永年に亘り土木建設の施工技術の向上を図るとともに、関係団体の役員として業界の発展に尽力し、この間建設資材対策に挺身その打開に努め、また、建設関連産業の組織化にも多大な貢献をした功績が認められ、知事表彰や大臣表彰など数々の賞を受賞しました。
昭和60年11月には、永年に亘り建設業を通じて社会公共に貢献した功績により、内閣総理大臣から藍綬褒章を授賞しました。
また多くの人々から、性行「資性篤実、人格円満にして公徳心に富み指導力抜群である」と、人柄についても高い評価を受けています。
廃校となった中学校を文化芸術センターにリニューアル。建替工事ではなく、耐震補強や建物用途変更といった改修工事で、構築物に対して「ストック重視」と呼ばれる時代を反映した工事だった。